
今回ご紹介する作品は、中村勇二郎氏の伊勢型紙。
江戸小紋を染めるには、まず、図案を考え“型紙”を作成するところからはじまります。その“型紙”を使って、生地に柄を染め抜くのです。
伊勢型紙には「縞彫り」「突彫り」「道具彫り」「錐彫り」「糸入れ」といった技法があり、それぞれに専門の職人がいます。
勇二郎氏は「道具彫り」の技術で人間国宝に認定された名匠。
熟練の技が生み出した繊細で重厚な文様をお楽しみ下さい。



「道具彫り」は、小刀の刃自体が、小さな花や幾何学紋様を持っており、職人はまず、その道具を手作りします。それら幾本かの彫刻刀の組合わせによって、一つの作品が彫られていきます。目を近づけると、それぞれの模様に小さなパターンが繰り返し、丁寧に刻まれていることがわかり、職人の息づかいが聞こえてくるようです。







勇二郎氏は、明治35年9月20日、三重県鈴鹿市寺家(旧・三重県阿芸郡白子町大字寺家)3丁目36番6号に生まれた。明治41年4月、鈴鹿市立白子小学校(旧・白子尋常高等小学校)へ入学。学校の成績は一番で、卒業式では答辞を読んだ。生物が好きで医者を志すが、父親に激怒され、家業の型紙彫刻を継ぐしかないと腹をくくる。
「型彫り職人になるんやから、人一倍努力して 誰にも負けん職人になってやる」
大正4年、学校を卒業した勇二郎氏は、厳しい職人気質の父・兼松から、今後は親子ではなく親方と弟子の関係だと言い渡される。他の兄弟子たちと寝起きを共にし、朝は暗いうちから起きて炊事、庭掃除、ぞうきんがけをしてから朝食。
厳しい修業生活を過ごした。
昭和8年、父であり親方であった兼松が亡くなる。この時、勇二郎氏38歳、何もかも再び一から勉強・研究のやり直しだったという。ほどなくして日本は戦乱の世に突入し、伊勢型紙業界も不況に喘ぐ状況となる。そこで勇二郎氏は単身大阪に赴き、刀の「柄巻き」を習得。どうにか生活を支えながら、再び型紙を彫る日を待った。終戦後、世の中が安定していくにしたがい、少しずつ伊勢型紙の注文が入るようになり、再び勇二郎氏は型紙彫刻の道に邁進することとなる。
昭和21年11月、伊勢型紙彫刻組合が結成され、勇二郎氏は副組合長に就任。
昭和28年6月には、組合長となる。このあたりから、人生の木に花が咲きはじめた、という勇二郎氏。大輪の花が咲いたのは、昭和30年2月15日。伊勢型紙彫刻道具彫り技術において、重要無形文化財保持者、いわゆる人間国宝に認定される。
また同日、労働大臣から職務分析の功により感謝状を贈られる。
その後も文化振興や後継者養成に尽力し、職人の域を超えて活躍した。
昭和60年10月20日、83歳で亡くなる直前まで数多くの大作を発表し、皇族への彫刻実演、作品献上も多数行なっている。
中村勇二郎氏の経歴年表は「名匠のきものページ」をご覧下さい。